coffee break

やらない善よりやる偽善

昔、小学校で受けた「道徳」の授業で、今でもよく覚えている内容がある。

それは、「野球チームに入った小学生の話」である。

彼は野球チームに入った。
しかしあまり野球は上手でなかった。
スタメンになれず、レギュラーメンバーが練習しているとき、いつも外野で球拾いをした。特に、遠くまで転がって雑草に入ってしまったボールを探し出すのが、自然と彼の役割となってしまった。
彼は、毎回球拾いをしているときに、
「つまらないな。球拾いなんで馬鹿馬鹿しい。野球チームを辞めたいな・・」
と、考えるようになっていた。
しかし、野球チームを辞める勇気もなく、いつも球拾いをしていた。

最後の引退試合でも、彼は出番なく終わってしまった。
そして、試合後にみんなが挨拶をしている場で、彼の意表をつく出来事が起こった。
それは、彼がみんなからとても称賛されたのである。

「みんなのために、いつも嫌な顔をせず進んで球拾いをしてくれた。
本当にありがとう、本当に感謝している。」と。

彼は想定外の感謝の言葉をうけて、とてもとまどった。
最初は照れもあったが、そのうち「本当は嫌々やっていただけで、チームのためでもなんでも無い。監督やコーチ、周りのチームメート、みんなから感謝されて、自分のことが恥ずかしい」と思ったのだ。

といった内容の話であったと記憶している。

小学生の私には、とても心に引っかかる内容の話であった。
私は、最初彼の本心はみんなのためでなく、嫌々球拾いをしていたという考え方は良くないことなんじゃないかと思った。
しかし、他の生徒の意見などを聞いているうちに、彼の気持ちがどうであろうと、彼のとった行為がチームメートみんなから感謝されることであれば、それは良いことではないか、と思うようになったのだ。

最近、東日本大震災などで、芸能人がボランティアに行ったり寄付行為をしたりすることが、売名行為だとか偽善者呼ばわりをされることがある。
また、日本テレビの24時間テレビなども、実は商業的な番組だと揶揄されることがあるのを聞いたことがある。

その度に私は当時の道徳の授業を思い出す。
仮に、本心が売名行為や商業目的であったとしても、結果的にその行為が被災者や困っている人を助けることになれば、もはや善意か偽善かということはどちらでも良いのである。
たとえば、24時間テレビの実態がどうであろうと、視聴者から集まった寄付金で困った人を助けることになったのであれば、それは何もやらないよりは十分価値のある行為だと思う。
(*私は24時間テレビの関係者ではありません。あまり見たこともありません。)

SNSなどで他人を批判をすることはとても簡単にできる時代である。しかし、他人が行った行為が、本当に偽善で行ったかどうかは本人以外知る由もない。そもそも他人を批判することはお門違いなのである。

「困っている人をみて心配はするが何もしない」より、「偽善であったとして、困った人を助ける行為をすること」のほうが価値があると思う。

「やらない善よりやる偽善」

大いに結構ではないか。